元暦2年(1185)2月、源義経は四国屋島に陣をしいていた平氏を背後から攻めたて、あわてた平氏は船で海に逃れ、海辺の源氏と対陣することになった。
夕暮れになったころ、沖から立派に飾った小舟が近づいて来る。見ると美しく着飾った18〜9歳の女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っていた。
義経は、弓の名手那須与一を呼びよせ、「あの扇の真ん中を射て」と命じた。与一は、意を決して馬を海中に乗り入れた。
与一は鏑矢を十分に引き絞って放った。約90m離れた扇の中央を正確に射切った。沖の平氏も陸の源氏も、これには等しく感動していた。
与一は扇の的を射た褒美として、源頼朝より那須氏の総領(跡継ぎ)の地位と、領地として五カ国内の荘園を与えられたと伝えらる。
ここにある那須公墳は、荏原那須氏がその祖与一公をしのんで建てた墓です。
●那須与一が頼朝より与えられた、と伝えられる荘園 | |
◎丹波国 五賀庄(京都府船井郡日吉町) ◎信濃国 角豆庄(長野県松本市、塩尻市) ◎若狭国 東宮河原庄(福井県小浜市) ◎武蔵国 太田庄(埼玉県行田市、羽生市) ◎備中国 絵原庄(岡山県井原市) |
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●那須与一の兄弟 | |
与一は十一番目の男の子でした。 父/那須資隆(すけたか) ◎太郎光隆(てるたか)…森田(現・南那須町森田)に分地 ◎次郎泰隆(やすたか)…佐久山に分地 ◎三郎幹隆(もとたか)…芋淵(現・那須町梁瀬字芋斑)に分地 ◎四郎久隆(ひさたか)…片府田(現・湯津上村片府田)に分地 ◎五郎之隆(ゆきたか)…福原に分地 ◎六郎実隆(さねたか)…滝田(現・烏山町滝田)に分地 ◎七郎満隆(みつたか)…沢村(現・矢板市沢)に分地 ◎八郎義隆(よしたか)…堅田(現・黒羽町片田)に分地 ◎九郎朝隆(ともたか)…稗田(現・矢板市豊田)に分地 ◎十郎為隆(ためたか)…千本(現・茂木町千本)に分地 ◎与一宗隆(むねたか)…那須家家督を継ぐ |
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●場所 | |
岡山県井原市野上町余次 |
1.この看板をガードレールの方向に道なりに0.6Kmすすむ | 2.道がちょっと悪いけどこの上に駐車場があります。 |
与一公を「公(きみ)に一(ひとつ・志望校)を与える」と読んで受験祈願のお参りがある。 | 那須与一公墳 |