備中織物の歴史

岡山県備中織物の移りかわり
 温暖な気候とさんさんと降りそそぐ陽光とに恵まれたここ備中地方は、今から340年の昔美しい緑の野に純白な点影をそえて綿花が咲き競っていた。ひなびた里のあちこちから手つむぎ、手横の単調な音が流れ、日がな一日を村の婦女子たちはみずからの衣服を織りなしていた。
天和年間
 天和年間(1681年)伝来した藍の栽培が行われるようになってからは、これを用いた浅黄木綿、紺木綿、絣木綿などの藍染織物がっくられ、生計の助けとするために売られるようになった。これが備中織物の今日の基礎となったのである。
 徳川時代の参勤交代の制度によって上下する人々が、名産地として競ってあがなうようになって、備中縞の声価は北陸、山陰、九州など津々浦々に広まった。
安政年間
 安政年間一橋の天領時代時の西江原御役所は、甚だしい疲弊から住民を救い地方産業を発展させる目的で各戸に高機を貸し付け、伊予からわざわざ師を招いて縞織物を織ることを奨励したこともあずかって大きな力となった。
明治
 明治維新後は参勤交代制度も当然なくなり著しく衰微した時代もあったが、協力一致してその復興に全力を注いだ結果主要機業地としての地歩を築き上げることができた。
15年  明治15年頃からは、従来の手紡糸から唐糸と称する舶来糸を使用し、織横にも改良が加えられて種々の織物が生産されるようになり、さらに明治22年わが国にも紡績会社が設立されてからは、原料糸の供給が豊富となり手紡糸は全く影をひそめ、もっぱら紡績糸をもって白木綿、織色綿、綿ネル、弁慶縞、ふとん縞等の着尺地から次第に広巾織物に移行して、製品の一新紀元を画するに至った。
24年  明治24年井原町に井原織物株式全社が設立されて、最初の動力織横を据えつけて白ネルを製織し、優良な品質は一時全国に名を高めたのである。蚊張地は明治32年西江原町で、小倉服地は34年木之子村で初めて生産され、次第に改善が加えられた。小倉服地は内需向けとしての霜降小倉、黒小倉、紺小倉は小、中学校の男女服地として全国に販路をもち、一方輸出においても大正元年最初の輸出が行われてから遂年増加し、第二次世界大戦まで「備中小倉」としてその製品はオーストラリア、ニュージーランド、南ア連邦をはじめ、アジアー円、欧米等世界各国に名声をはせ、わが国輸出小倉服地生産高の46%を占める盛況であった。 
昭和
16年  昭和16年輸出の途を絶たれ、また戦時中は軍需織物の生産に従事するもの、あるいは他の軍需産業に転換するなど備中織物は全く影をひそめたのであった。戦後においても計画生産のため、この状態がしばらく続けられたが、貿易の再開された昭和24年以降本来の姿に立ち返る兆しが見え始めた。
 しかし、この頃からスフ織物への移行が急ピッチで進み、また小倉織物から薄地の先染織物の需要が増加し、33年の生産量のうちスフ織物が80%の多きを占めるに至っているが、さらにその後の生産内容の分布図は大きく塗りかえられた。すなわち、スフ織物がその後依然首位を占めているとはいえ、その生産量は54.2%七なり、綿織物の18.4%は大きな動きが見られない。つまり、合繊織物の27.4%は飛躍的な進出といわなければならない。このような合繊織物の進出は、いきおいW巾自動織機の導入を促進する結果となり、全国有数の近代的設備を有する産地として将来の発展が期待される段階になってきた。
35年  昭和35年にはその年間生産量が4,200万平方メートルに達し、備中織物有史以来の最高の記録を示した。
 生産の伸びの中核をなすものは合成繊維混紡織物であって、その大部分は生地織物である。また、この伸びは概ね内需向けとみられ、輸出の伸びは存外少ないものであった。
 舶来のジーンズ(デニム)と中国地方の山間の町との結びつきは一見意外に見られる。ブルージーンズはもともとアメリカの西部で生まれた。それは、牧場や農場の荒れくれ仕事にも気兼ねなくはける、丈夫な「仕事着」であった。それを考えると仕事着一途に生きてきた井原地区が、かつてあの厚手の藍染木綿から小倉服に切り替えたように、その小倉服から藍染デニムのジーンズに切り替えたというのも、じつは自然なことであった。
 もともと岡山県では江戸時代から厚地織物の技術が引き継がれており、ジーンズの素材になるデニム地の生産地であった。
40年 昭和40年頃、米国製の中古品のジーンズが東京、大阪で若者に人気を博していることに着目し縫製業者が古くから培ってきた厚地の原反の縫製技術を使って、全国に先駆けてジーンズの製造を開始した。そして昭和45年頃から若者を中心に爆発的なジーンズブームが訪れ、当時学生服の販売不振に悩んでいた縫製業者の多くがジーンズ生産に参入したことで、当地が日本を代表するジーンズ産地となった。
48年  昭和48年頃には井原では年間1,500万本の生産量を誇っていたが、これは日本中の15歳から25歳までの若者、男も女も、病人やケガ人もひっくるめた全部のおよそ75%にもあたる。
 その後、オイルショック、為替自由金利制施行などの影響を受け生産量は落ちていくものの、色や柄、生地質の改善等をし、付加価値を高めながら現在に至っている。
平成
3年  平成時代になり、一時盛んともいわれたが、平成3年を過ぎ繊維業界にも厳しさが増してくることとなった。
 ジーンズ業界では平成5年以降、綿100%のデニム地を素材とするベーシックジーンズの販売不振が続き、それを補う形でレーヨンやテンセルなど軽くて柔らかい素材を用いたソフトジーンズの売り上げが伸びている。また、全体的に商品単価が低下しているため、大手業者では海外生産の拡大や物流の効率化を進め、各種コストの削減を図っている。
7年  平成7年になり、円高の進展に比例して繊維製品の輸入が急増し、綿織物の国内生産は減少し続けている。当地においても平成7年の綿織物の生産量は平成元年の半分以下になっており、中小零細規模の業者を中心に転廃業が増加していることもあって、織物業者の事業所数は年々少なくなっている。
 繊維業界では現在、消費者ニーズに即応し、店頭での売れ筋商品を迅速に供給するという観点から、国内生産のメリットが見直しされつつある。このため、織物業者においても、多品種少量短納期に対応できる生産体制を整備することで、活路を見いだしていくことが求められる。
 一方、ポリエステルなどを原料とする合繊織物の生産については、井原市を中心に製造業者(機屋)が集積し、ユニフォームやカジュアル衣料品素材の産地を形成している。かつては全国でも有数の合繊織物の産地であり、中近東諸国など海外にも輸出されていたが、綿織物と同様に円高の進展とともに価格競争力を失い、生産量は減少傾向にある。
 今後、合繊織物業者が生き残るためには、技術開発力、商品企画力を強化し、機能、品質面で海外の製品と差別化した素材の生産に特化することが不可欠である。また、製品納入先の高度な要求に応えるため、生産効率のよい新鋭織機を導入することも必要な課題とされている。